筆冩近衞言行不一致録

雑感をある程度毒抜きされた戯言にして吐き出す。

鼓腹撃壌の振り

なぜ日本では表立って政治について話をしないことがよしとされるのかを、ふと考えてみた。理由はいくつかあるだろうが、私の視点から出てきた考えを述べたい。

良い子供は為政者を讃え、良い大人は為政者のなす事を批判せず、平々凡々に暮らせば良い、と云う道徳的観念が日本には根付いているのであると考えるのである。これは、日本に影響を与えた中華の故事が、ねじ曲がって人々に拡散された結果ではないかと考えるのである。

 

中華における伝説時代、その時代の聖天子の一人である尭が自らの政治の出来を確かめるべく、密かに市井を歩いたと云う。

その中で子供達が歌う歌には、「立我烝民、莫匪爾極。 不識不知、順帝之則。(私たち万民の生活を成り立たせているのは、あなた様のこの上ない徳のおかげでないものはありません。知らず知らずのうちに、帝の手本に従っています。)」とあったと云う。

また、小太りの老人が歌うのには、「日出而作、日入而息。 鑿井而飲、耕田食。 帝力何有於我哉。(日が昇れば仕事をし、日が沈んだら休む。井戸を掘っては水を飲み、畑を耕しては食事をする。帝の力なぞどうして私に関わりがあろうか。)」ともあったと云う。

この様子を見て、自分の政治はうまくいっていると確信したと云う話がよく付け加えられるのが、鼓腹撃壌の故事である。

 

これ、今の日本における子供のなすべき事と、大人のなすべき事の道徳的通念と化してないかと思うのである。

子供たちは今の天子(ここでは与党首脳か)の良い面、オモテの面を見てそれを讃え、そしてその手本(周りの大人の解釈がここに加わるであろうが)に従うものである。大人たちは政治に深く関わらなくとも日々飯が食え、それなりに楽しく暮らしていけているように振舞うものである。

鼓腹撃壌の故事は、尭帝の善政によって市井の暮らしの様子はどうなっているのかを述べたものである。

しかし、それの因果関係がひっくり返ってしまっているのが、日本の道徳的観念ではないかと考えるのである。善政が行われている、太平を謳歌している。あるいはそのように見せかける、そのように思い込む。その為に鼓腹撃壌の振りをする。それが日本で政治について表立って語るものでないとされている理由なのではないかと。

中華故事は良いものが多いが、それが為政者にとって都合よく解釈される傾向が、日本にはあるのかもしれない。この鼓腹撃壌も、日本ではまるでパラノイアの世界を作る一つの要素になってしまっているのかもしれない。

 

鼓腹撃壌の振りをやめ、政治をしっかりと見つめ、そして時に声を上げなくてはならない。善政は自然にもたらされるものではないのである、声を上げて働きかけなくてはならないのである。