筆冩近衞言行不一致録

雑感をある程度毒抜きされた戯言にして吐き出す。

出版不況

twitterアカウント はツイート、リツイート、いいねはしていないが、まだまだDMの連絡を確認したり、その他トレンドの確認(何がバズってるか)のために時々覗いている。思わぬツイがRTされたりするのであれだが、まあそれもいいだろうと思い、そんなに気にはしていない。気に入ったツイートがもしあれば、RTやいいねをしてくれても構わないし、パクツイしていただいて構わない。

今日は、そのなかで一つ気になったものがあったので、それに言及したい。

出版不況

もう何年この言葉が言われてきたのだろうか。私も沢山は本を読まない(年12冊程度)方だが、それでも郷の本屋が店を畳んだ話を聞くととても悲しくなる。買い支えようとすると積読家になりかねないので、その辺は私の知性と処理能力の限界だが。

若者のクルマ離れだの言われているが、若者どころか人間が書籍から離れている、とても嘆かわしいお話なのである。電子書籍が振興されているのかと思えばそうでもないのが、嘆かわしいことであることをはっきりと示してくれる。

さて、私は当然ながら「出版不況」は解消されて然るべきである、そう考えている。自動車が売れなくなることに関して、所詮は交通手段でしかないもの、移動の手段が変わっているだけであろうと思っているし、それは産業が転換されるべきだとさえ思っている。スキー・スノーボードもそう。娯楽の構造の変化であり、時代によってそれは変化するものでしかない。酒や煙草に関しては…これは缶入りピースを呑みながら読書する時間を至高とする私には辛い。書籍持ち込みの喫煙読書スペースが欲しいので、分煙には賛成だが、禁煙には強く反対していきたい。酒については共闘したい。

しかし、出版不況に関しては、人類の知的作業の一つであり、文明の根幹であるものが読書と筆記・出版であると考える私からすれば、それは解決、少なくとも出版者が存続し、対価を払えば出版が可能な構造は残されるべきであると考える。文明の基本である。ヒト・モノ・カネ・情報は滞りなく運ばれなくてはならない。

確かに、個人で物事を考え、そして発信することはこのウェブ2.0の時代、もうウェブ3.0が迫りつつある世の中で、とても容易になっていると云うのは、もちろん私もはっきりと認識しており、そして現に戯言を考えては、約1000〜4000文字にしてこのように書いているのは事実である。しかし、このブログに書かれている事の品質を見てみると良い。

これを読んで、あなたは賢くなれるのか。豊かな表現や、新たな知識や知見、なにより読むことの愉しみを得られるのか。情報の流れを、フリーのものに頼ろうとする向きについては、まずここから考えて欲しい。食べ物で言えば、野っ原に生えている草や木、その実や葉や花、あるいは球根、そしてきのこを食うようなものである。

このブログは、いまのところ栄養がなく、食うと若干気分が悪くなるが、それもすぐに忘れるぐらいのどうしようもないものになっている。が、いずれ毒が溜まっていき、食う前に立ち去るか、さもなくば内臓に重篤なダメージを与えるものになるであろう。twitterで毒を雑に毒を吐くのをやめ、ここ(当ブログ)かここ(妄心綜合雑言事務所)でしっかり煮詰めてから吐くことにしたのであるからだ。

出版の本質は、品質保証にあると考える。その本の中身について、その出版社・出版者が精査し、流通させるに値するものであると判を押すこと、これが出版社による出版の意義であると考える。食べ物で言えば、とりあえず食べ物の体を為しているのである。うまいまずいはあるかもしれないが、想定された消費者に向けた、食べ物なのである。その辺の野っ原や森林ではなく、料理・調合されているのである。

確かに毒になる様な本はいくらでもある。まるで蠱毒としか言い様のない、「歴史書」が出回っている。外国人への憎悪を煽るような本もある。しかし、それは阿片を求める人間にその効能のあるものを送り届けるようなものである。実際に行動に移して害を為す兆候があれば、それはその行動やその準備について咎められ、取り締まられるべきであり、その本やそれを読むことを咎めてはならない。そこはしっかり区別されるべきである。

とにもかくにも、出版社によって出版された本は、編集と云う検査者が内容を精査し、うまいまずいは別にして、流通させる価値があると判を押されているものである。思考の骨肉になる可能性は、ブログの類いのようなフリーのものより遥かに高いのである。少なくともこのブログよりは役に立つのである。新しい知識、(ある程度)整合された価値観、豊かな表現、それらは出版社や研究学会によって校閲され、また加筆された書籍のほうが、得られる可能性は高いのである。楽しく読めるかどうかについて、それもやはりそうである。出版社による一つの水準は満たしているのであるから。

また、出す以上は本が売れて欲しい。その為にはまずその本が知られる必要があるが、やはり書店に出ると云うこと、或いは出版社のリストに載ること、これほど強力なものは、個人では出せないであろう。どんなブログランキングよりも、全国に取り扱いのある出版社での新刊のほうが、現実への露出は大きいのであると考えている。カタログを見る人の数が違うのは、今でもそうであろう。書籍という現物になること、このシグナルは大きい。

もし君がこのブログを熱心に読むならば悪いことは言わない、大川周明の「日本二千六百年史」(新書版を推奨)や、三島由紀夫の「潮騒」でも読んで欲しい。同じ時間を過ごすにしても、君は価値ある時間を過ごせる。もう読んだって?ブックオフにでも行きなさい。そこで100円程度で売られてる中古の文庫本のほうがよほど価値がある。なんなら話題の弁護士が出した本でも良い。特定コミュニティ住人なのできちんと買って読んでいる(内容が薄過ぎて積読になる前に読み切ってしまった)が、少なくともこのブログよりは価値がある。

「出版不況」は、そのような知的資源の流通インフラが危機を迎えているということである。何としてでも脱せねばならない。その為には、原因を調べ、それを解消したり、あるいはダメージを緩和、或いはその原因となる事象への耐性をつける為の改革が為されねばならない。日々の1パーミルぐらいの時間を、この事に費やしては、何も出来ないので悶々としている。

 そう思っている時に、このようなツイートを見たのである。

 「売れる」ものを創ろうとした結果、知的作業をしない人に売り込もうとした結果、中身が薄っぺらくなってしまった、ということとなのだろうか。それについては、異論を唱えたいところだが、まず落ち着いて考えることにしよう。

少なくとも、興味・関心があることがある人は、やはりその物事についての本を読むし、そのいくつかは更に本を書くことを企て、その一部がやはり書籍の形にして出すのである。食いたいモノには食いつくし、食わせたいものは作ってカタログ・メニューに載せようとするのである。しかし、興味・関心が何にもないと云う人には、何かを積極的に摂取しようと云う意思はあるのだろうか。

 まず、興味・関心がある人、好きな人に評価されなければ意味がない、それについては一理ある。中身があると言うことは、つまるところその中身が好きな人がいると云うことであり、それが価値であるということであろう。また、この出版不況、マス的に売れることを前提とした構造が原因と云う見方もあるかもしれない。拡大の為マスに迎合したがために、その部分で大きな赤字が生じてしまったのかもしれない。

 

さて、ここまで考えたところで、何処に着地すべきか分からなくなってきた。私は莫迦なので、2000文字を越えると文を纏める処理が出来なくなるのである。2000文字ごとに纏めなければ、収拾がつかなくなるのである。しかし、今回は纏めることができなかった。こういうところを、しっかり学校に通っているうちに直しておくべきであったと後悔している。